プチ観光 高松城

今回の仕事の合間のプチ観光は、JR高松駅の近くにある高松城(別名:玉藻城、)です。


高松城は、日本三大水城の一つで、

瀬戸内の海水を外堀、中堀、中堀に引き込んだ城です。


城主は、

初め生駒親正が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられたことから始まりましたが、

お家騒動により、藩主が徳川光国の兄である松平頼重に変わり、

その後、明治まで続きました。


当時の城域は約20万坪でしたが、

今では約2万4千坪と8分の1ほどの広さが残っているのみです。


 初めに内堀に三包囲まれた天守閣跡に鞘橋(写真:左)を渡って行きました。

今は復元された天守台のみですが、

当時は、3重5階の南蛮作で四国最大規模を誇っていたようです。


現在、天守閣の復元も目指しているようです。

天守台(写真:右)から海と城跡を見回しても雄大な感じです。

天守閣の上からこれらを見回せるれば、

どんなに優雅な気持ちになるものかと思いました。


その跡、時計回りに、

二の丸跡→水門→披雲閣庭園(写真:左)→月見櫓(写真:右)

・水手御門・渡櫓→艮櫓(太鼓櫓跡)→桜の馬場と回りました。

天守閣跡を中心にゆっくりと見て回ることができました。


JR高松駅の近くなので、高松に行った時には高松城に行くことをお勧めします。

また、岡山・高松〜松山感を走るアンパンマン列車もあるので、

お子様連れでも高松旅行を楽しめると思います。

(観光ビジネス研究会 岡村 善裕)

Q1 なぜ玉藻城と言われるの?


A1 万葉集で柿本人麿が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と詠んだことから、

高松のあたりの海が「玉藻の浦」と呼ばれていることによると言われています。


玉藻よし 讃岐の国は 国柄かか 見れども飽かぬ 

神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満りゆかむ 

神の御面と 継ぎ来る 


中の水門ゆ 船浮けて 

わが漕ぎ来れば 時つ風 

雲居に吹くに 沖見れば 

とゐ波立ち 辺見れば 

白波さわく 鯨魚取り 

海を恐み 行く船の 梶き折りて 

をちこちの 島は多けど 名くはし 


狭岑の島の 荒磯面に 

いほりてみれば 波の音の 

繁き辺べを 敷栲の 枕になして 

荒床に 自伏す君が 家知らば 

行きても告げむ 妻知らば 

来も問はましを 玉鉾の 

道だに知らず おほほしく 

待ちか恋ふらむ 愛しき妻(つま)らは


--- 意味 ---

玉のような藻の美しい讃岐の国は、国の由来ゆえか見ても飽きないことだ。

神々しいゆえかなんとも貴いことだ。

天地、月日とともに満ちて行くだろう神の御顔として今日まで語り継いで来た。


中の港から船を浮かべてわたしが漕いで来れば潮時の風が空に吹き、

沖を見れば大波が立ち、岸を見れば白波が騒いでいる。

鯨さえ捕れるような海を恐れて行く船の梶を止め、

あちこちに島は多いけれど、


名も美しい狭岑の島の荒磯に仮庵を建てて見れば、

浪の音も激しい浜辺を敷栲の枕として荒れ岩を寝床に倒れている君。

君の家を知っているなら行ってこのことを知らせるのだが、

君の妻が知ればやってきて言葉も掛けるのだろうが、

美しい鉾を立てるような道も知らないので、

鬱々と待ち恋ているのだろう、君の愛しき妻は。




Q2 日本三大水城は他にどこ?


A2 高松城(写真)の他に、今治城(愛媛県)と中津城(大分県)があります。

 

今治城(別名:吹揚城)は、

藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。

その後、徳川家康の甥である松平定房が入城し、

以後、明治維新まで今治藩・松平(久松)氏の居城となりました。


また、中津城は、黒田孝高(如水)が築城し、

細川忠興が完成させた周防灘(豊前海)に臨む中津川河口の地に築城された

梯郭式の平城です。



Q3 讃岐と言えば讃岐うどんだよね!


A3 はい。うどん県と言われるぐらい、腰のある麺でとても美味しいです。

今回の高松訪問では、朝に「かけうどん」に天ぷらをトッピング、

昼に「ぶっかけうどん」(写真)を食べました。

「釜揚げうどん」か「釜玉うどん」が食べたかったのですが、

次回のお楽しみとなってしまいました。

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